室町時代から呼称されてきた「吉富郷」に由来して、吉富町と名付けられました。
「よしとみ」の「よし」を図案化したもので、外周の円は円満、上部の突き出した部分は飛躍・発展を表しています。
わたしたちは、天地の恵み豊かなこの吉富町に誇りを持ち、わたしたちの手で、平和な明るい住みよい町にするため、ここに町民憲章を制定します。 | |
一. | 自然の恵みに感謝し、環境をととのえ、潤いのある町をつくります。 |
一. | 教養を深め、伝統を重んじ、文化の香り高い町をつくります。 |
一. | 勤労を尊び、産業を伸ばし、豊かで活力ある町をつくります。 |
一. | スポーツに親しみ、心身を鍛え、健康で明るい町をつくります。 |
一. | 人を大切にし、町を愛し、平和で住みよい吉富町をつくります。 |
「友愛誠信 」
町制施行記念の五月にちなんで「さつき」が町の花となりました。五月は、生きとし生けるものすべてが躍動する時期であり、また、万緑の中に明るく花開く季節でもあります。わけても、五月から咲きはじめる「さつき」は、その華麗さ、優雅さゆえに昔から多くの人々に愛されてきた、わが国の代表的な花の一つです。
花の色や形が豊富で、樹性は強く、早く生育します。公園や家々の庭に咲きほこり、人に親しみと安らぎを与える「さつき」の花は、まさに自然と人間と技とが調和した庶民的な銘花です。この「さつき」こそが、文化の花開く、明るく住みよい町づくりを目指す、わが吉富町を象徴するのに最もふさわしい花といえます。
たゆみなく生長・伸展を続ける常緑の木「もくせい」は、一歩一歩前進する吉富町の姿です。
「もくせい」は、愛情を表すと言われますが、金色に輝く清楚な花の集まりは、町民相互のうるわしい連帯感と感情を感じさせ、そのほのかな気品に満ちた香りは人に安堵感を与え心を和ませてくれます。
「もくせい」は、庭や公園などに欠かせぬ代表的な樹木であり、土地を選ばず生育も旺盛で、きれいな空気を好むといわれます。環境を整え、潤いのある町づくり、愛情と連帯を基盤とした活力あふれる町づくりを目指すわが吉富町に実にふさわしい木が、この「もくせい」です。
本町は、西南より北ないし東北にむけてゆるやかな傾斜(標高1.5m~18.0m)程度をした平坦地で、山岳に発した山国川と佐井川に挟まれた東西1.8km、南北4km、面積5.72km2の広さでほぼ台形をなし、清流と清々とした空気にはぐくまれ自然環境に恵まれた、北九州から50km圏内に位置する肥よくな土地の田園町です。
気温は日本海型気候区と内海型気候区で中間型気候であり、1年を通じて九州でいちばん雨量の少ない気候で、年間降水量は1,400mmないし1,600mmでこの点では、瀬戸内海型気候に区分されることが多くあります。町内の平均気温は15℃~16℃で冬あたたかく、夏は涼しい住みよい町です。
吉富町は、福岡県の最東端に位置し、東経131°10′、北緯33°36′で東は山国川を境に大分県中津市、西は海岸沿いに豊前市、南は上毛町に接し、北は波静かな周防灘に面しています。
吉富町は、遠く江戸時代から明治4年まで中津藩にあり、廃藩置県よって中津県となりましたが、120日後に小倉県に編入されました。その小倉県も明治9年には廃止され、福岡県に併合されました。
明治21年の市町村制施行によって翌22年に東吉富村(幸子、別府、楡生、鈴熊、今吉、土屋、直江、広津の8 大字)と高浜村が誕生し、明治29年築上郡設置の際、当時の高浜村を山国川の境として西側の小祝(高浜)、小犬丸を東吉富村に編入、現在の姿となり、人口4,500余人の村でした。
昭和15年吉富製薬K.K.工場創立に伴い昭和17年5月19日町制を施行、吉富町として発足し現在に至っています。