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【3】石器の発展と土器の出現

■石器の発展と土器の出現

草創期の遺構・遺物はあまり明確ではありませんが、上毛町金居塚(こうげまちかないづか)遺跡の神子柴(みこしば)タイプ磨製片刃石斧(ませいかたばせきふ)や、上毛町池田池の細石核などは、旧石器時代最終末から縄文時代草創期に移る頃のものとみられます。

石器類では、打製石鏃(だせいせきぞく)石匙(せっぴ)類以外あまりはっきりしませんが、特徴的な石器の一つに、チャートなどの石材を用いて丁寧に調整加工され、 (やじり)の形ながら先端部が鋭く尖らずに丸みをもつ磨製石器があります。わたぐりの深い鍬形鏃(くわがたぞく)と称される石鏃も早期からみられますが、岡為造氏資料中の桑野原(かのばる)採集品にも若干含まれています。

早期(九千数百年前頃~6,300年前頃)には、彫刻のある円棒を回転させて文様を付けた押型文土器の文化圏が中部地方から九州地方の北半分を覆います。器の形も尖底(せんてい)で直線的に広がるものから、口縁部(こうえんぶ)が強く外側に反って胴が膨らむ形に変化して、丸底や平底が出現します。平底と尖底の相違は、土器の使用方法、食物の加工方法が相違して煮沸から多様化したことと、胴部の膨らみは貯蔵を(うかが)わせます。

中期の遺跡では、殆ど発見されていませんが、築上町東高塚弘法田(ちくじょうまちひがしたかつかこうぼうでん)遺跡では、安山岩製(あんざんがんせい)姫島産国曜石製(ひめしまさんこくようせきせい)の打製石鏃も若干出土していて、中期の遺跡が少ないこの地域では貴重な資料といえます。

九州島での草創期と前期から中期の土器は、2枚貝の腹縁を用いた貝殻条痕で飾られていますが、後期(4,000年前頃~3,000年前頃)になると、新たに磨消縄文土器が出現します。縄目文様を施文(せもん)した下地に渦巻などの文様を描いて、区画した部分をヘラなどで磨り消す手法で、東日本から文化複合によってもたらされたものらしく、活発な人の動きと接触が窺われます。後期初めの頃の土器は、上毛町宇野台遺跡や豊前市小石原泉遺跡で若干発見されていますが、後期前半から後半にかけては、土器や石器類だけでなく、集落や貝塚などで具体的な状況を知ることができます。

後期には打製石鏃が減少する一方では土を掘る道具である打製石斧が急激に増加し、同時に増加する石皿・すり石は使用面が平坦面化しています。打製石斧は、山野に自生する芋やユリの根などの根茎類を掘り採る時に用いられたとみられます。また、石皿とすり石の使用面が平坦なことは、対象物が流動物と粉状の組み合わせから、固形物や粘性のあるものと粉状の物との組み合わせへと変化した可能性を示しているようです。焼畑などの原始的な栽培農耕があった可能性は、穂摘みに用いられるような打製収穫具が後期の後半にはみられるので、無かったとは断言できません。

晩期(3,000年前頃~2,500年前頃)の土器は、無文様化が進みます。光沢ができるように丁寧に器の面を磨き、黒く焼き上げた黒色磨研土器(こくしょくまけんどき)には、深鉢・浅鉢・椀・高杯(たかつき)注口(ちゅうこう)土器などの器種があって、貝殻や板状原体を用いて調整された粗製土器には、深鉢や甕形(かめがた)などの器種があります。また、晩期後半には器種に壷も加わります。

■岡家の考古遺物(岡為造収集考古遺物)

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町指定 有形文化財 考古資料
平成2年9月1日 広津 フォーユー会館

地元郷土史家の岡為造氏が、明治末期から昭和初期にかけて収集した考古遺物500点余りが、保存されています。縄文時代の石器や土器類、古墳時代の副葬品、鉄剣や銅鏡、装飾品の玉、環類や須恵器などがあります。

岡家の考古遺物(岡為造収集考古遺物)

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