■縄文時代の生活のようす
後期前半頃の遺跡では、宇佐・中津市で発見される貝塚があります。貝塚は、先史人が貝殻などの食物滓を捨てたごみ捨て場と一般に理解されていますが、貝殻だけではなく他の食物滓なども一緒に堆積しているため、当時の生活のようすを知る上で好都合な遺跡でもあるのです。単に潮干狩りのような簡単な貝類捕採だけでなく、岩礁性貝類の捕採に用いられたアワビ起こしのような尖頭具などもあります。漁労活動の痕跡としては、刺突漁に用いる骨製ヤス、網の錘に用いられた打欠石錘・土器片錘・切目石錘、釣具である釣針なども貝塚から出土します。
前期の貝塚といえる例は、中津市本邪馬渓町枌洞穴遺跡の淡水産カワニナを主体にする貝殻層がみられますが、海水産貝類も含まれているので、現在よりも奥にあった海岸線まで捕採活動に出かけていたことや、交易が想像されます。
後期の貝塚は、豊後高田市森貝塚、宇佐市立石貝塚、石原貝塚、中津市植野貝塚、福島貝塚などがあり、これらの貝塚では後期初頭~前半期を中心に貝層が形成されていますが、後期中頃には貝塚形成が急激に衰退するようです。ただ石原貝塚では後期末から晩期前葉にかけての貝層が発見されていて、特定の貝類に集中した貝層が形成されているので、専業化した集団がいたのかも知れません。
山国川を境に、東側の宇佐・中津市域には貝塚はありますが、西側の豊前・築上郡地域には貝塚の分布がほとんどみられません。おそらく豊前・築上地域の地形が、谷底平野から急激に水が流れ落ちるために、砂泥質の内湾が形成されにくかったからと思われます。
現在、周防灘南西沿岸地域では、縄文時代の居住跡が150軒程発見されていますが、そのほとんどは縄文時代後期に含まれ、ひとつの遺跡で数軒から数十軒規模の住居跡が発見されています。
後期前半の住居跡は、円形あるいは方形プランで敷石石囲炉・石囲炉などを施設する住居跡で、やや時期が下る頃には、扁平立石を伴う「上唐原型住居跡」が出現するようです。
後期前半から後半にかけての周防灘南西沿岸地域では、住居が多数造られ、集落が形成されていたようです。九州島内で、いち早く住居跡が急増し、住居跡の形態でも他の地域よりも先行して新しい形態が採用され、やがて周辺地域へと広がっている状況が窺えます。また集落の占地では、近くに山野を控えた谷底平野や扇状地で、河川に近接して水を確保できる平坦面が選ばれ、住居跡は塊石がごろごろした砂礫層まで掘り込んだ竪穴構造であることが特徴です。
後期末から晩期にかけての時期になると周防灘南西沿岸地域の住居跡の発見例は少なくなって、むしろ阿蘇外輪山周辺地地域などで遺跡数が増加していることから、相対的な移動が考えられます。衣類に関する資料としては、土器の底面に押捺された編み物の圧痕が、築上町山崎遺跡などにみられ、後期末頃からは土製紡錘車も出現していることから、植物繊維を利用した織物が存在したと考えられます。しかし、山国川流域などで出土した土偶にも衣服、髪型や装飾品を表したものが残念ながらみられません。
髪飾り、耳飾り、首飾り、腰飾り、腕飾りや脚飾りなどは、貝塚などから出土した資料などでも知ることができます。前期には軟質の石を用いた耳飾り、イモガイなどを用いた玉類があって、後期には骨製のヘアピンや櫛、土製耳飾、猪牙製垂飾、硬玉大珠、ヒロクチカノコを用いた玉、ベンケイガイ・タマキガイ、アカガイなどを用いた貝輪なども流行していたようです。九州地方で2枚貝製の貝輪を装着した人骨は、女性に多く、外面が黒毛で覆われ、赤身で血を出す貝としてアカガイなどを選択している例もあります。垂飾や玉類には緑色系や灰白色系の色調が選ばれていて、上毛町東友枝曽根遺跡では、緑泥片岩製の抉りが深いタイプの勾玉や、翡翠製の獣形らしい勾玉が、上唐原了清遺跡では翡翠製の獣形勾玉が出土しています。