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【8】古墳時代の吉富周辺

■古墳時代の吉富周辺

当時を知る記録としては、『古事記』にはヤマト政権に服する勢力として上膳(かみつみけ)県主(あがたぬし)がみえます。また、『日本書紀』の景行天皇の条には、ヤマト政権に服さない勢力として鼻垂(はなたり)(菟狭(うさ)川上)、耳垂(みみたり)(御木「ミケ」川上)、麻剥(高羽(たかは)川上)、土折猪折(つちおりいおり)(緑野川上)らがそれぞれ川上の険しい要害の地に占拠して反抗していると記されています。そして、対新羅政策に絡んだヤマト政権の統一過程の中で磐井の乱(527年)に関連して、『筑後風土記逸文』には、筑紫の豪族であった磐井の最後は山国川流域の地で、吉富周辺の上毛(こうげ)の地に逃げたように記されているのも極めて興味深いものです。

5~6世紀の墳墓(ふんぼ)では、横穴墓(おうけつぼ)や小型の終末期群集墳のなかには、高句麗などの影響を受けたものもみられますので、磐井の乱後のヤマト政権が、耳垂などへの対抗勢力として設置された屯倉(みやけ)に関連する新興勢力集団の墓地であった可能性も考えられます。

また、吉富周辺の生業を知る手がかりとしては、岡資料には砲弾形の腹部に穴が穿(うが)たれた蛸壺、楡生の岡屋敷採集品などに有溝土錘(ゆうこうどすい)棒状有孔(ぼうじょうゆうこう)土錘などがみられるので、漁労を行っていたとみられます。また専業的要素が強いものですが、上毛町下唐原大久保遺跡で発見された埴輪窯(はにわがま)は5世紀末~6世紀初めに操業されたようです。なお埴輪窯は九州でもまだ3例しかない珍しいものです。

■楡生山古墳

pc_1138732932.jpg 町指定 史跡 昭和60年4月1日
楡生公民館前

周囲60メートル、高さ4メートルの前方後円墳で、5世紀中頃の山国川・佐井川流域において、首長かそれに次ぐほどの地位にあった人の古墳であると言われています。この古墳では大正4(1915)年に経塚が発掘されています。経塚とは、紙に経文(法華経)を書いて、経筒に入れて地中に埋めたもので、さきに造られていた古墳を利用して、平安時代頃に埋められたものと言われています。昭和2(1927)年に経塚付近を掘り下げたところ竪穴式石室が発見され、人骨と直刀、(やじり)、矛などの鉄器も確認されました。


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