■弥勒寺(みろくじ)
宇佐宮境内に壮大な伽藍を構えていた弥勒寺は、わが国最初(738)の神宮寺で、国家の厚い保護をうけて、平安時代には宇佐宮に次ぐ多くの荘園を九州一円に持っていました。近辺では黒土荘・山田荘などが弥勒寺の荘園でした。大分県の国東半島には、六郷満山といわれるほど、弥勒寺支配の天台宗寺院がたくさん造立されたように、弥勒寺の荘園が多かった豊前国にも、彦山とつながりの深かった弥勒寺から出た僧侶によって、寺院が沢山建立されました。
鈴熊寺は、僧行基が天平6(734)年建立したと伝承していますが、本尊薬師如来像の作風から孝えて、平安時代に建立されたと孝えられています。この辺を鈴熊荘といったそうですが、中世の記録で確認できません。しかし、室町時代の応永32(1425)年、山口から鈴熊へ出陣した守護大内盛見が10日余り滞在しており、天正6(1578)年には、鈴熊寺住持が豊後の大友義統(宗麟の子)の使僧として活躍していて、寺領も確認できることから、中世には格式ある寺院であったことが分かります。寺伝によると、教心坊・練計坊・行深坊・経因坊・円覚坊・経心坊の6坊があったといいますから、山伏が住んでいたようです。江戸時代には、真言宗の高野山の支配となりました。
■光明真言塔
有形文化財 建造物
鈴熊 鈴熊寺薬師如来坐像保存庫の前にある碑は、表に
梵字で
真言の聖句が刻まれ、その下に「
光明真言一百
万遍」と刻まれ、側面に「宝永五
戊子(1708)
閏正月日
妙寿立」と記されています。梵字は「大日如来の知恵と慈悲をもって、われらをお救いください」という意味のことを記しているそうです。
■涅槃(ねはん)石
町指定 史跡 昭和60年4月1日
鈴熊 鈴熊寺鈴熊山の北方山腹に、高さ2メートル、横3メートルの巨石があり、70センチメートルほどの釈迦の涅槃像を取り囲んで、諸菩薩や佛弟子などが浮き彫りされています。この像は、鈴熊寺中興の祖とされる天台宗の僧
午道法印
巍純が、中津藩主のすすめで、文政6(1823)年、宇佐郡
津房(宇佐市安心院町)の
桂昌寺より鈴熊に移住し、本堂や
庫裏・
鐘楼などを再建し、巨石の下に法華経の一字一石を埋め、涅槃像を彫刻したという記録が残っています。また、午道は、五百羅漢像と
常夜燈を刻みはじめたが、他寺に移ったため、未完成のまま今に残っています。
■木造薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)
国指定 重要文化財 昭和25年8月29日
有形文化財 彫刻 鈴熊 鈴熊寺
寺伝によると、大友氏の兵火によって寺堂は焼け、本尊は久しく行方不明でしたが、江戸時代の初め、別府村の田(薬師田)のなかから掘り出し、小堂に安置していたのを寛永9(1632)年、中津城主小笠原長次が本堂を再建し、本尊を帰座したといいます。奈良時代、僧行基が「悪疫退散、疾病平癒」のために薬師如来像を刻んだと伝承しています。像高87.5センチメートル、薬壷を持って静かに座る姿は、その穏やかな作風から、平安時代後期の作で、鈴熊寺もその頃天台宗寺院として建立されたと孝えられます。築上郡内では、もっとも古い国指定の仏像です。
■涅槃絵図
町指定 有形文化財 絵画
昭和62年3月2日
鈴熊 鈴熊寺
涅槃図は釈迦が裟羅双樹の下で、死を迎える情景を描いた図です。釈迦が頭を北に、顔は西に向け、右脇を下にして横たわり、周囲に諸菩薩や佛弟子・鬼畜類などが集まって悲嘆にくれる様子を描いています。本図は無名ですが、画風・色彩などから江戸時代の作品と孝えられています。
■木造十一面観音菩薩坐像
町指定 有形文化財 彫刻 昭和62年3月2日
鈴熊 鈴熊寺十一面観音は六観音のうち、多方面に慈悲の働きを示す観音で、前3面は慈悲の相、左3面は怒りの相、右3面は
白牙上出の相、後1面は大笑いの相、頂上に1佛面を持ち、右手に宝珠、左手に
水瓶を持っています。本像は、高さ73センチメートル、
檜の寄木造りで、
玉眼をはめ込み、全体に金箔が残っていて、均整のとれた端正な像です。室町時代から江戸時代初期の作とされています。
■木造宇賀神像
有形文化財 彫刻
鈴熊 鈴熊寺
宇賀神は、「うがじん」とか「うかじん」ともいい、幸福・財力の神である弁財天と同一に孝えられます。また、白蛇を梵語で「ウガヤ」といい、弁財天の使者とされ、人頭蛇身で老人の顔をしているとされます。本像は、高さ17センチメートルの一木造りの小像で、江戸時代の作品とされています。未公開
■銅製歓喜天立像
有形文化財 彫刻
鈴熊 鈴熊寺歓喜天は頭は象、身体は人間の姿をした仏法の守護神です。
双身像は男神と女神が抱擁する姿が表されています。夫婦和合・子宝の神として信仰され、油を注ぐ
油祈禱に使われるため銅製が多いようです。本像は高さ10センチメートルの小像で、「寛政四
壬子霜月廿五日、奉修歓喜天
花水供十七日、諸願円満・家内安全祈願」の裏書から、江戸時代の寛政4(1792)年の作品であることが判ります。未公開
■木造増長天立像・木造多聞天立像
有形文化財 彫刻
鈴熊 鈴熊寺
増長天は須弥山の中腹に住み、南方を守る神です。像は赤色で甲冑をつけ、右手に鉾、左手を腰に当てています。多聞天は北方を守る佛法守護の神将で、甲冑をつけ、両足に天邪鬼(あまのじゃく)を踏まえ、手に宝塔と鉾を持っています。日本では毘沙門天ともいいます。増長天の本像は高さ66センチメートル、一木造り。多聞天の本像は高さ70センチメートル、一木造り。両像とも造りは良くなく、近世の地方の彫刻家の作とされます。
■木造勢多迦童子立像
有形文化財 彫刻
鈴熊 鈴熊寺
勢多迦童子(せいたかどうじ)は金伽羅童子(こんがらどうじ)と共に不動明王に従う童子で、頭髪を5つに束ね、右手に金剛棒、左手に三鈷を持っています。木造は高さ66センチメートル、一木造りで傷みがひどいが、平安時代の作かもしれないとされています。
■木造不動明王坐像
有形文化財 彫刻
鈴熊 鈴熊寺不動明王は、大日如来の命を受けて災害悪毒を除き、行者を守り、諸願を満足させる佛で、右手に縄、左手に剣を持ち、怒りの形相をしています。本像は高さ67センチメートル、寄木造りで、彩色がわずかに残っています。火炎の
光背や台座は当初のものですが、持ち物は無くなっています。厳しい顔つきや
衣文の複雑なたたみ方などから室町時代の地方作とされています。