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【3】豪族広津氏と広運寺文化

■広津氏

広津氏が史料として確認されるのは鎌倉時代末期、嘉暦(かりやく)3(1328)年、上毛郷司田部忠通(かみつみけのごうじたんべのただみち)が「ひろつの小太郎」と称せられていたことです。田部氏は、宇佐宮の役人として、その一族が宇佐郡・下毛郡でも勢力をもち、広津氏は宇佐宮領の上毛荘(かみつみけのしょう)か上毛別符の田所(たどころ)という役人も務めていました。山国川の河口の港に住み、物資の集散に関与していましたから、南北朝時代から室町時代には活動範囲は下毛郡から宇佐郡に及び、勢力を強めました。15世紀、守護大名大内氏が、豊前国で強大な力を示しはじめると、広津氏は大内氏の家来となって、上毛郡代(ぐんだい)や下毛郡反銭奉行(たんせんぶぎょう)として重要な役目をはたしました。

16世紀ごろ、大内氏が滅び、豊後の戦国大名大友宗麟(そうりん)が豊前に勢力を伸ばすと、広津氏は大友氏の家来となって、広津城に立籠(たてこ)もり、秋月方の攻撃を撃退しました。しかし、豊臣秀吉の命令を受けた黒田孝高(よしたか)(のち如水軒(じょすいけん))が小倉に上陸する前の5年間は秋月氏に従いました。黒田氏が中津城主となると、広津氏は、小倉城主となった毛利勝信(かつのぶ)の家臣となり、広津の地を離れました。関が原の戦い後、浪人していた広津氏は黒田氏に招かれ、福岡城下に移り住みました。広津氏の菩提寺と孝えられる広運寺(こううんじ)は、天文6(1537)年、大寧寺(だいねいじ)(長門市)の助翁永扶(じょおうえいふ)によって曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院として開かれました。助翁はまもなく大内義隆に求められて田川郡上野(あがの)天目山興国寺(てんもくざんこうごくじ)を中興しました。また、宇都宮鎮房(しげふさ)が、天正16(1588)年、豊臣秀吉の命令をうけた黒田長政によって、中津城で謀殺されたとき、広運寺で待っていた家臣16人は、これを知って、この寺で切腹したと伝えられています。また『城井谷(きいだに)物語』という本に、野田新助、吉岡八太夫(はちだゆう)の2人が重傷を負いながら、この寺までたどりつき自害したとあり、その墓が今もあると「築上郡史」に述べています。

■篠塚(しのづか)古戦場跡

史跡 今吉
南北朝時代に観応元(1350)年5月、南朝方の新田伊達(にっただて)小次郎・如法寺(にほうじ)孫次郎らが上毛郡の所々を焼き払ったため、成恒三郎種定・萱津(かやつ)次郎三郎・安永四郎らが北朝方の守護小弐頼尚(しょうによりひさ)の守護代西郷兵庫允顕景(ひょうごのじょうあきかげ)に従い、篠塚で合戦したという記録(成恒文書)が残っています。本町今吉南方の小丘が古戦場跡と孝えられています。「吉富町誌」に篠塚の北方に割塚とか庚申(こうしん)堂とか云った塚があり、千人塚と言い伝えていることから、当時の戦死者を葬った塚ではないかと記しています。

■水月観音菩薩坐像

水月(すいげつ)観音は補陀落山(ほだらくさん)の水皿の岩上に座して、水面に映る月を眺めている。鎌倉時代以降、中国の宋や元の彫刻の影響で流行した観音様かと思われる優れた彫刻で、室町時代の作と孝えられています。


■子安観音菩薩坐像

広津 広運寺


■広運寺仏像(尊名不祥)

広津 広連寺


■木造薬師如来坐像

有形文化財 彫刻
広津 広運寺

本像はもとこの辺にあった国泰寺(こくたいじ)という天台宗寺院の本尊でしたが、兵火で寺坊が焼失し、久しく行方不明であったところ、村人が古井戸の中より発見し、天仲寺山の上に小堂を建て安置しました。中津城主小笠原氏がこれを広運寺境内に移したと伝えています。本像は、高さ77センチメートル、顔面・螺髪(らはつ)に色彩を残していますが、破損が著しく台座や光背は後世のものです。平安時代の作ではないかと伝えられています。

■広津家文書

有形文化財 歴史資料(古文書)
広津 広津 旭氏宅
広津氏は数家に分かれ、中には宇都宮氏と姻戚になった広津氏もあったようです。本家は小倉城主毛利勝信の家臣になって、広津の地を離れ、毛利氏が関ヶ原合戦で小倉の地を没収されると、黒田氏に召し抱えられて福岡に移り住みました。この家には中世の文書は残っていないようです。広津若狭守鎮頼の子孫は広津に残り、天正14(1586)年ころの文書(「吉川元春・小早川隆景連署書状」、「山田隆長書状」、「黒田官兵衛(孝高)書状」)3通を広津旭氏宅に伝えています。

■手洗石

有形文化財 建造物
広津 広運寺
手洗石は、社寺に参拝する前に手や口を水で清めるために置かれています。広運寺には2基あって、本堂前にあるものは、「福善」と大きく刻まれ、扇形の水盤をもつ重厚な優れた意匠です。享和2(1802)年の銘があります。観音堂の前にあるものは型は小さいですが、正面に「水盤」と雄渾な書体で刻まれ、「天明七年丁未」(1787)に奉納されたことが記されています。

■広津城跡

当城について確実な史料は、弘治3(1557)年6月18・19日の2日間、広津治部大輔鎮種(じぶたいゆうしげたね)の宅所へ秋月文種(ふみたね)方の山田安芸守隆朝(あきのかみたかとも)・中八屋備前守英信(ふさのぶ)らが攻め寄せ、広津城に籠城していた大友方の杉因幡守隆哉(いなばのかみたかとし)・佐田隆居(たかすえ)ら宇佐群衆・野仲兵庫頭鎮兼(ひょうごのかみしげかね)、福島安芸寺らが防戦して山田勢に三百余の死傷を与えて撃退したことです。この時、山田勢は上毛郡や近辺から集めた数千の兵で広津宅所を包囲し、広津城には宇佐郡衆・下毛郡衆など数千が籠城しましたから、天仲寺山・広運寺山・現小学校付近まで広い範囲に空堀(からぼり)が縦横に掘られ、柵が廻らされ、砦が築かれたと思われます。近辺の家屋は焼き払われ、住民は人質に取られますから、城内に入るか、遠くへ逃げ散るか迷いました。広津氏は天正10(1582)年には、野仲鎮兼と結び、秋月・高橋方となって、大友氏から離れました。この前後、両方から攻撃を受けて、広津城に籠城することが多かったと思われます。天正15(1587)年、黒田孝高が中津に築城する時、広津城は破却されました。
 

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