中世吉富の歴史と文化財
公地公民を原則とする律令制度を維持することが困難となった中世にはさまざまな私地私民が発生します。わが郷土上毛郡は上毛郷(のち吉富名)・上毛荘・黒土荘・上毛別符・成恒名・尻高浦・多布村など郷・荘・別符・名・浦・保・村に分割され、武士が郷司・荘司・名主・地頭などの役人となって年貢その他の税を徴収していました。当町広津に住んで、国や宇佐宮の仕事をしていた田部氏の一族広津氏は上毛郡の代表的な武士で、南北朝時代から守護大名の指示に従って郡内の仕事を処理しました。
14世紀末、大内氏が豊前国の守護となると、広津氏は大内氏の家来となり、郡代や段銭奉行という役人として上毛郡ばかりでなく下毛郡へも勢力を広げました。16世紀なかば、大内氏が滅亡したあと、戦国大名大友宗麟が豊後から侵入すると、広津氏は宇佐郡代佐田氏や築城郡代城井氏らとともに大友氏の家来となり、大友氏に従わない上毛郡の山田氏や下毛郡の野仲氏としばし戦いました。しかし、大友氏が島津氏との合戦に大敗すると、豊前国は秋月氏と結ぶ野仲・長野・高橋氏らの力が強くなり、広津氏も野中氏と結び、大友氏と戦うようになりました。
天正14(1586)年、豊臣秀吉が黒田孝高を九州へ派遣すると、豊前国の武士の多くは小倉城に入った黒田孝高のもとに出かけ、忠誠を誓いました。その中に広津氏も見られ、やがて毛利勝信の家臣となって、広津を離れ、小倉城下に移り住みました。上毛郡は、宇佐郡・下毛郡とともに古代・中世を通じて宇佐宮とその神宮寺である弥勒寺との関係が深く、しだいにその私地私民のようになっていきました。したがって、八幡古表社や鈴熊寺は、宇佐宮や弥勒寺とのつながりが強く、また英彦山の修験道も天台宗の山岳仏教とも関係が深いため鈴熊寺も英彦山修験道の影響をうけました。豪族広津氏も郡司・郷司として国の役人、私領の役人として宇佐宮の祭りに参加し、その文化を積極的にとりいれて、周囲の人々の目をひらかせました。