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■小祝

小祝は、表川(中津川)裏川(小犬丸川)にはさまれた三角州で、江戸中期までは上毛郡小今井(こいまい)村といい陸続きでした。寛文9(1669)年7月18日の大洪水で川流が変わり、州となったのです。高浜は、小祝の西に隣接する州です。

寛文年間(1661~72年)に、小倉領高浜50石と中津領東土佐井(ひがしつっさい)50石の替地が幕府に内緒で行なわれましたが、貞享3(1686)年、再び替え戻し、高浜は小倉領60パーセント、中津領(下正路(しもしょうじ)分)40パーセントの相給(あいきゅう)支配となりました。高浜には、「京泊(きょうどまり)」という港があり、小笠原期の寛永15(1638)年には京泊の西北の出鼻に遠見番所が作られました。小祝は、慶長末頃、仲津(なかつ)郡今井村の漁師が出漁のために移り住み、初めは1、2軒の小家がありましたが、その後、次第にその数が増えていきました。

寛文6(1666)年には、「小祝」(『豊前志』)とみえていますが、元禄13(1700)年の絵図には「小今井村」とあるように、公称は「小今井村」で、中津藩内で「小祝」(子祝)といっていたようです。奥平期になり、宝暦中期(1755年頃)までは、小祝には店方(たながた)もなく、漁民と漁舟ばかりでしたが、安永期(1772~80年)には店方もでき、10~30石積の舟が、中国地方への茶船、下関への城下荷船として、いずれも城下の雇舟(やといぶね)の形で往来しました。

安永5(1776)年には、小祝に問屋ができていて、旅船・商船の引き受けをしています。翌6(1777)年には、小祝船(商船)8隻が活躍しています。

寛政11(1799)年には、ひところ45軒あった中津の問屋は25軒に減少、一方で門外店(中津城下の六関門の外に成立した店)と小祝はますます繁昌していきました。殊に、小祝は、店方や問屋が増加し、日田・玖珠(くす)・山国地方の生産物や商品が集散、100~200石積の小祝船で上方や瀬戸内へ移出し、返り荷として繰綿(くりわた)干鰯(ほしか)などを移入しています。

文政11(1828)年には、宇島(うのしま)に築港が完成、小祝・高浜の漁民300戸が移住しました。

文久3(1863)年には、中津龍王浜の三百間鼻に「御台場」が築造され、大砲三門がすえられました。そして、慶応2(1866)年の藩庁「日記」には、高浜詰大砲方の記録が散見されます。このように、小祝・高浜は、中津藩にとっては商品流通の中継港として、また海防と富国強兵の基地として重要な地域であったのです。小祝浦・高浜浦の替地要求は、中津藩の方からしばしば出されています。中津藩主の替地要求の趣旨は、「近年の形勢、城下間近の場所柄、防禦筋(ぼうぎょすじ)別して差し支えの趣を似て、御台場築き立てをし、大砲をすえて海防・強兵を行ないたい」「(小祝村替地事件)」というものでした。

慶応3(1867)年12月4日、懸案の小倉領(正式には香春(かわら)藩)小祝村・高浜(200石9升8合)と中津領直江村・土屋垣村・別府村(一部、202石6升3合6勺)との所領交換手続きが完了し、小祝村・高浜が中津領に編入されました。 多年の懸案は解決をみましたが、3年後には廃藩置県となり、小祝はさらに福岡県となり、明治29(1896)年4月1日、大分県中津市に編入されました。

■御神幸

民俗文化財 無形
小犬丸 八幡古表神社

毎年9月中旬に行われる、古表神社の鎮座を記念した大祭で、各区の太鼓に傘鉾を仕立て、太鼓や笛、チャンガラの囃子をしながら、神輿とともに町内を巡行し、皇后石の奥の宮で神幸祭を行なう伝統行事です。

■藩界石

町指定 有形文化財
建造物 昭和60年4月1日

この石標は、細川藩政時代に造られた中津街道(中津・小倉間の道路で、別名を下往還)の御界川を挟んで建っていたもので、東が中津藩領、西が小倉藩領と両藩の境界を示した建造物です。中津領を示す石標は八坂神社にあり、「従是東中津領」と刻まれ、町指定建造物となっています。また、小倉領を示す石標は、界木の福田家の庭にあり「従是西小倉領」と刻まれています。藩政時代の境界であった御界川は、現在でも吉富町と豊前市の境界となっています。


■御界川


■瑜珈稲荷境内(天仲寺山)

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