■近世の街道
近世の街道を旅する旅人にとって、「一里塚」は、旅程の目安となり、日差しの強い日には木陰の憩所ともなった。慶長9(1604)年、江戸幕府は、江戸日本橋を起点として、五街道のうち、東海道・東山道・北陸道の道路の両側に榎を植えた一里塚を築かせました。その後、公領は代官、私領は領主に命じ、あとの二街道と脇街道に一里塚を造らせたのです。では、豊前細川藩では、いつ、領内に一里塚が築かれたのでしょうか。
寛永3(1626)年3月3日付の、中津の細川三斎付き奉行衆長舟十右衛門から本藩小倉の奉行衆浅山・西郡・横山の3人にあてた書状(永青文庫文書)に、「御状拝見せしめ候。御国中道ののり遠近御座候に付、一里三六町道に成られ、一里目の境に桜を植申すべき旨仰せ出され候。中津近所も道ののり御打たせ成られ候間、自然御尋も御座候はば、右之通申上べく候。」とあります。すなわち、豊前細川領では、寛永3年に、細川忠利(忠興の三男)が支配する本藩小倉領と細川三斎(忠興)の中津隠居領(蔵入地)をも含めて36町(約4キロメートル)ごとに一里塚を築き、桜を植えたのです。一里塚造築の普請は、3月(旧暦)の農繁期であったので、農民以外の者が本藩小倉領と三斎隠居領をも合わせて行いました。このようにして、寛永3年、豊前細川領では、小倉城下札の辻を起点に、領内に一里塚が次々と築かれていきました。
正保2(1645)年の国絵図には下往還(四郎丸-八屋-宇島-沓川-三毛門-直江-広津ー中津)の直江の所に、上往還(四郎丸-荒堀-塔田-岸井-皆毛-高田-大ノ瀬-垂水-高瀬)の大ノ瀬の所に、それぞれ一里塚を示す墨星があります。細川期に「一里塚」と呼ばれていた一里塚は、小笠原期の正保国絵図では「一里山」と呼ばれています。一里塚は、このように、領域や時代によって、「一里山」・「一里木」・「一里石」・「一里塚」などと呼ばれていました。
文政8(1825)年、奥平期の中村組大庄屋中村泰造は、小倉新田藩岩井手永の大庄屋と共同で、中津城下への交通の便をよくするために、大ノ瀬、中村を経て広津から中津に至る道路の施設を計画し、翌9(1826)年に竣功しています。いまは新道ができたために、あまり利用はされていませんが、中村から篠塚山の西を通り、今吉の東方から広津に出る道路です。この道路沿いの今吉には「庚申堂」という地名が残されており、「猿田彦大神」の道祖神が、春日神社に移されて立っています。
■春日神社の道祖神
有形文化財 建造物 今吉 春日神社
自然石を用いたものの正面に「猿田彦大神」と刻まれ右側面に「文化四(1807)丁巳正月吉日 今吉邨願主 横川茂吉 定四郎 惣四郎 惣助 藤右衛門 和右衛門」と刻している。
■八幡古表神社の道祖神
有形文化財 建造物
小犬丸 八幡古表神社自然石を用いたものに、「猿田彦大神」と刻まれています。道祖神は、峠や辻、村境などの道端にあって、悪霊や疫神などを防ぐ神として信仰され、古くは岐神(ふなどのかみ)と呼ばれ、後に塞神(さえのかみ)とも呼ばれるようになりました。中国の古代信仰に旅の守護神として道祖神があり、朝鮮半島にも同種の信仰があります。これらが日本の「猿田彦」信仰と混合したものとされています。猿田彦大神は、日本神話の天孫降臨で先導をしたとされて以来、道案内の神、道路の守護神として、神幸祭などの先導も受け持ち、道の案内役「猿田彦」を道祖神として信仰しています。道祖神には、文字や像を彫った石塔のほか、加工していない自然石を使ったものなど、さまざまな形態が見られます。