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寛永9(1632)年・・・

寛永9(1632)年10月28日、細川氏が加藤氏改易後の肥後54万石へ移封(いほう)、中津には、播磨国龍野6万石より譜代大名小笠原長次(ながつぐ)が8万石で入封しました。細川氏の旧領地には、小倉に忠真(ただざね)、龍王に重直(しげなお)木付(きつき)忠知(ただとも)と、小笠原四家が配置され、北部九州は譜代大名による九州支配の拠点となりました。領域は、上毛(こうげ)郡19ヵ村、下毛(しもげ)郡82ヵ村、宇佐郡124ヵ村、吉富地域は、上毛郡唐原(とうばる)組19ヵ村のうちの10ヵ村(直江(なおえ)別府(びよう)・広津・今吉・鈴熊・土屋・楡生(にりょう)幸子(こうじ)・小犬丸・小祝)でした。初代長次は、寛文2(1662)年2月、大工頭内海(だいくがしらうつみ)作兵衛を棟梁、中村、別府村兼帯庄屋前田治右衛門(中村組大庄屋の先祖)を普請掛(ふしんがかり)に任じ、大ノ瀬池の新池工事に着手、その夏に完成させました。直江・別府・今吉・鈴熊・土屋・楡生・和井田・吉岡・中村の9ヵ村、約110町歩(約110ヘクタール)の水田を潤す大池ができたのです。また、長次は、()を中津市街に埋設し、山国川の水を高瀬の川上で取水し、藍原(あいはら)村から城下へ通す水道工事も実現しました。

寛文6(1666)年5月29日、長次死去し、広津の天仲寺山の墓所に葬られました。二代長勝(ながかつ)は、延宝元(1673)年、病気養生のためと称して、幸子村の河岸に豪華な三層の離亭(茶亭)を建てました。48室の楼閣(ろうかく)は、金銀珠玉(しゅぎょく)で飾り、名画・珍品を集め、庭園に奇木・異草を植えました。さらに京・大坂の美女数十人を呼び、(いかだ)や川舟を組みあわせて造った屋形舟で糸竹呂律(しちくろりつ)の歌舞・遊宴の限りを尽くしました。その生活が非常に奢侈(しゃし)であったため参勤交代の費用にも事欠くほどでした。また、当時、年貢収入も低迷していたのです。このような藩財政の危機打開のため、延宝6(1678)年郡代(ぐんだい)岩波源三郎が、領内御仕置政務預かりとして登用されました。岩波は、130ヵ条の条令を出し、家臣への地方知行制(じかたちぎょうせい)を廃止して蔵米制に変え、新税を設けたのです。海口(かいこう)の移出入税を運上場で課し、六関門での移出税を徴収しました。また、諸運上銀を増徴し、麦作(ばくさく)に新税を課しました。法鏡寺(宇佐市)に関所を構え、宇佐宮参詣者および往来の旅人から通行税を取りました。領内の芝居・浄瑠璃や酒宴・音曲(おんぎょく)などの娯楽を禁止し、仏事供養を禁制し、神社の祭礼まで差し止めたのです。その上、訴訟は取りあげないことにし、刑罰を厳しくしました。一連の苛政(かせい)と領民の他国・他領への逃散(ちょうさん)のことが幕府の耳に入り、幕府の叱責を受けました。同年10月、「欠落行方知(かけおちゆくえし)れずとなり、途中にて打ち殺された」(『四日市村年代記』)と言われています。

天和(てんな)2(1682)年11月2日、長勝死去。三代長胤(ながたね)は、初めの間は善政を志し、荒瀬井堰(あらせいぜき)を増設したり、中津城本丸・矢倉・石垣などの修築をしましたが、元禄7(1694)年の100軒余の中津城下大火の復旧工事などのため、夫役(ぶやく)も領民の生活を圧迫し、貧民の数は増え、多くの餓死者を出しました。龍王無縁寺の浜には、大穴が掘られ、一つの穴には、10~20体の餓死体を埋めたと伝えられます。この噂は江戸にも聞こえ、藩主長胤の乱行とも重なり、元禄11(1698)年7月28日、領地8万石が収公(しゅこう)され、長胤は、小倉藩主小笠原忠雄に預けられました。こうして、8万石を領有した小笠原三代は終わりました。長胤改易後、上毛・下毛・宇佐郡4万石が弟長円に与えられ、あとの半知は幕府領に編入され、ここに四日市天領が成立しました。

享保元(1716)年、長円(ながのぶ)の長男の長邕(ながさと)が6歳で病死。世嗣断絶で改易となり、弟長興(ながおき)に播磨国安志(あんじ)1万石が与えられました。

■中津小笠原 略図

■小笠原長次の墓

町指定 史跡 昭和60年4月1日
広津 天仲寺山上

中津小笠原初代藩主の長次公は、寛文6(1666)年の5月29日、52歳で亡くなりました。長次公は遺言で「自分を葬るときは、鎧・甲を身につけ、腰には太刀、手にほっすを持たせ、広津山に埋めよ」と言って絶命したと伝えられています。墓前には、家臣たちから奉献された灯籠101基が参道一帯に建てられています。昭和48(1973)年に天仲寺の公園整備事業が行なわれ、長次公の墓も修復されました。地下2メートルほど掘り下げたところに石棺があり、遺言どおりの姿をした長次公が、中津城の方向を向いたように葬られているのが確認されています。

 

■小笠原長円の墓

町指定 史跡 昭和60年4月1日
広津 天仲寺山上

中津小笠原三代藩主の長胤は、藩政が悪かったことから、元禄11(1698)年7月、幕府から中津8万石を没収され、小倉の配所に左遷されました。その翌日、幕府は特使をもって弟の長円を下毛・宇佐・上毛三郡のうち4万石に封じて中津城主としました。長円は身体が弱く、病気がちであったため、下毛郡東浜村に離亭をつくり、病気療養をしていましたが、正徳3(1713)年に病状が重くなり、長邕を跡継ぎにと遺言し、10月に38歳で亡くなりました。長円の墓は五輪塔墓標で、地輪正面に「真浄院殿義英宗高大居士」、右側に「正徳三葵巳」、左側に「十月十二日」と刻まれています。

 

■小笠原長美の墓

町指定 史跡 昭和60年4月1日
広津 天仲寺山上

小笠原長美は、中津小笠原二代長勝の長男でありますが、家を継がずに、中津に在住していました。享保元(1716)年に、五代長邕が6歳で病死し、小笠原家に跡継ぎがいないため、幕府は領地を没収しました。長美も小倉領の築城郡八田村(現、築上町)に移住したが、享保2(1717)年9月20日に死去しました。小笠原家にゆかりのある天仲寺山に葬られました。墓標は笠付位牌形で正面に「浄徳院殿自覚宗観大居士」、右側「享保二丁酉年九月廿日」と刻まれています。

 

■小笠原長次公坐像

有形文化財 彫刻
吉富フォーユー会館

この像は、領民や家臣たちに慕われつつも寛文6(1666)年の5月29日に死去した、小笠原長次公の遺徳を偲び、二代長勝公が作らせたものです。坐像は、像高15.4センチメートルで右手に笏を持ち、左手には太刀を持った束帯姿で畳に座っています。小さな木造ですが、本像・厨子ともに手慣れた上方仏師の作であると思われます。

■小笠原灯籠(とうろう)

有形文化財 建造物
広津 天仲寺山上

中津小笠原初代藩主の長次公の一周忌の際に、家臣たちが奉献したもので、天仲寺山に101基が建てられ霊廟として整備し、長次公の功績を偲びました。時代の流れの中、燈籠は散逸し現在、2基の燈籠が墓前に戻り十数基の所在が確認されています。

 

■天仲寺の石盥盤(せっかんばん)

町指定 史跡
平成4年11月16日 広津 天仲寺境内

石盥盤は社寺に参拝する前に手や口を清めるための水を溜めている手水石と同じ役割をもつものです。中津小笠原初代藩主の長次公は、寛文6(1666)年に亡くなりました。家臣たちは、長次公の一周忌にあたり、墓前から参道一帯に101基の灯籠を建て、霊廟として整備し、長次公の功績を偲びました。その際に、この石盥盤も奉献されました。

 

■小笠原長勝公奉納刀

有形文化財 工芸品
小犬丸 八幡古表神社

中津小笠原二代藩主の長勝公が、延宝9(元禄元年・1681)年、病気平癒祈願のため奉納したもので、刀、脇差ともに、領内の刀工に作らせたものです。その際には、大小数振の刀剣が作られ、耶馬渓の羅漢寺などにも奉納されたと伝えられています。

  • 刀 - 長さ 2尺6寸5分
  • 銘文-表 為武運長久神納之
    小笠原信濃守長勝
    裏 - 于時延宝九辛酉五月吉辰
  • 豊前中津住 長利作之
  • 脇差 - 長さ 1尺8寸3分
  • 銘文 - 表 為武運長久神納之
    裏 - 于時延宝九辛酉五月吉辰
    豊前中津藩住  国吉作之

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