軍師官兵衛 宇都宮鎮房ゆかりの地

黒田氏の入国と宇都宮氏の反抗

吉富町遠景

黒田官兵衛・宇都宮氏ゆかりの地

天正15(1587)年 豊臣秀吉の九州平定に軍奉行(いくさぶぎょう)として活躍した黒田孝高(くろだよしたか)、通称・官兵衛。
その功績が認められ、7月3日、豊前(ぶぜん)国京都(みやこ)・仲津(なかつ)・築城(ついき)・上毛(こうげ)・下毛(しもげ)・宇佐の6郡12万5000石を秀吉から与えられました。

播磨国(現在の兵庫県の西南部)山崎から、まず、京都馬ヶ岳城へ入城。
同年9月、肥後(熊本県)で大規模な国人一揆が起こりました
新封の領主佐々成政が、入封早々に検地を強行し、新たな課役を課し、負担が重くなったためです。

秀吉は、毛利輝元(てるもと)をはじめ、四国衆、そして立花宗茂(むねしげ)・小早川隆景(たかかげ)・毛利秀包(ひでかね)ら九州大名を直ちに肥後へ派遣しました。
そして黒田孝高も兵を率いて久留米まで出動していたのです。

しかし、10月朔日、留守を任せられた子息、長政のいる馬ヶ岳城へ豊前各地で国人衆が蜂起(ほうき)したという知らせが入りました。
直ちに、長政は久留米の孝高へこれを告げ、自身は兵を集めて上毛郡へ出動しました。

土着の勇将、宇都宮鎮房と黒田氏の激しい攻防

豊前(ぶぜん)を古くから治めていた一族の末裔、宇都宮鎮房(しげふさ)は、かねてより秀吉の領地替えの指示により黒田孝高に領地を取られた形となり、強い不満を示していました。

鎮房はこの地方の有力者である緒方・如法寺氏らと鎮房が組み、兵を挙げ、姫隈山(上毛町)に立て籠もったのです。

長政はこれを攻略して馬ヶ岳へ帰り、鎮房の籠もる鬼ヶ城を二千余の兵で攻めましたが、敗北しました。
長政は神楽山に向城(むかいしろ)を築き、350人ほどの兵を置いて、宇都宮氏の往来を塞ぎました。

その間に、上毛・下毛・宇佐三郡の国人が挙兵し犬丸賀来・福島などの城に立て籠もったのです。
長政は、馬ヶ岳から広津城へ出馬し、上毛郡観音原(上毛町)で国人一揆を率いていた鬼木掃部(かもん)を討ち取り、11月7日に如法寺庄川底で同じく国人一揆のひとり円藤(えんどう)源兵衛を討ち取りました。 やがて、伊藤田・中尾・山田・八屋らが滅ぼされました。

黒田氏の策略! そして宇都宮氏の終焉

12月12日頃、犬丸城が陥落、21日までに賀来、福島城が陥落し、首が京都へ送られたのです。
形成不利を悟った鎮房は、小早川隆景・毛利勝信・安国寺恵瓊(えけい)を仲介にして、黒田孝高に和議を申し入れ、嫡子・弥三郎(ちゃくし・やさぶろう)とその妹を人質に出しました。
こうして黒田氏は、領内をほぼ平定したのです。

天正16(1588)年1月11日、孝高は、中津城の造営を始めました。

同年4月20日、黒田長政は、鎮房を中津に招き、心許したと見せかけて酒宴の席で謀殺、さらに合元寺(赤壁)で鎮房の家臣を殺害しました。
さらに城井に逃げ帰った家臣を追討し、城井の館も灰と帰してしまいました。

こうして鎌倉時代から続いた宇都宮氏は滅亡し、黒田氏はやっとの思いでこの地方を平定したのでした。

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