| 日本俳諧史上で中興者の位相にあった俳聖松尾芭蕉は、蕉風俳諧の創始者でもあります。「蕉風」とは、芭蕉の俳風のことで、広義には直門およびその末流の俳人を指します。 全国の俳壇は、都市系俳壇(京都・大坂・江戸の三都を舞台に活躍する貞門派・談林派)と地方系俳壇(美濃派・伊勢派)の2つに大別できます。都市系は、知巧的趣味的な句を、地方系は、平明な実景実情的な句を、それぞれ重視しました。杵築俳壇は、元文〜延亭期(1736〜47年)に九州各地を巡遊した行脚俳人安楽坊春波の影響による伊勢派の俳諧です。吉富俳壇は、寛政〜文政期(1789〜1829年)に九州各地を巡遊した行脚俳人岡崎風盧坊・山本友左坊の影響による美濃派の俳諧です。美濃派は、蕉門十哲の1人各務支考が開いた一派で、支考の出身と活動の舞台が美濃であったためにつけられた派名です。支考は、獅子庵とも号したので、獅子門とも言います。 支考の後は、仙台櫨元坊−田中五竹坊−安田以哉坊−大野是什坊−野村白壽坊−岡崎風盧坊−山本友左坊と継承されました。天仲寺境内には、芭蕉以下美濃派7人の宗匠や吉富俳壇の文什坊・遅日庵・耘露坊などの句碑が建てられています。岡崎風盧坊や山本友左坊の影響を受けた吉富俳人としては、岸井の文什坊(岸井手永大庄屋中村忠左衛門、蘭推、文台立机を許され、孤月庵一世、文政2年1月20日歿)・中津の遅日庵(中津藩士山崎源九郎、卓朗仙・還見坊、同二世、天保9年8月8日歿)・和井田の耘露坊(矢頭代八郎、澄明庵、同三世、弘化3年閨5月18日歿)・中津の花月坊(同四世)・東浜の沙浪庵(井上氏、同五世)・広津の松月坊(野依銀兵衛、同六世)・今津の清香庵(今津小十郎、同七世)・長洲の孤月庵(広崎佐平、同八世、昭和4年正月4日歿)などがいます。 そして、美濃派俳人としては、岸井の二松庵・西友枝の汀高盧(吉村浅右衛門)・土佐井の医師笠原桃夭園素・竹葉舎・杏花園などもいます。 近世中期以降の地方俳壇の隆盛は、美濃派や伊勢派の行脚俳人の諸国巡遊に負う所が多いのですが、それを受容する地方の生産力の増大と地方町人の成長があったからです。地方の素封家が寛大に旅の文人を迎え入れる風習は、詩人や画家にも及び、遥か明治中期まで続きました。中央文化を受容する階層−上層武士・新興の上層町人・学者・医者−を母体として、文化サークル的な俳壇が存在していたのです。近世の吉富には、美濃派の句碑だけでなく、原田東岳や根来東麟・竹本津太夫など、中津藩の学者や文人・芸人の墓、そして剣豪島田虎之助の修練地がありました。 吉富は、地方文化の醸成地であり、集束地でもあったのです。 |