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■古代の吉富周辺

友枝(ともえだ)川の東岸に面した、上毛町下唐原(しもとうばる)土佐井(つっさい)にまたがる丘陵では、平成11年に神籠石(こうごういし)の列石や水門が発見され、唐原神籠石と名付けられました。列石、土塁などを繋いだ総延長は1.2キロメートルほどで、神籠石としては小規模なほうです。内部の施設などは未発見ですが、最高所からは、椎田から宇佐あたりの海岸部が望め、遠く対岸の周防国側の山並みや、背後の上毛郡(こうげぐん)下毛郡(しもげぐん)の平野部一帯が見渡せます。おそらく朝鮮半島での緊張に関連して、筑紫の朝倉広庭宮に進出した(661年)斎明天皇(さいめいてんのう)の避難ルートを確保するためにも、山国川河口近くに設ける必然性があって、これを支える集団も居ただろうと考えられます。

上毛町垂水廃寺は、7世紀末頃に創建された古代寺院で、伽藍配置などは未だ分かっていませんが、帰化系氏族が建立したと考えられ、6~7世紀に須恵器や瓦を焼いていた上毛町山田窯跡や国指定史跡の上毛町友枝窯跡などで焼かれた新羅系瓦が大半ながら、一部百済系の瓦も使用されています。

正倉院に残る大宝2年(702年)の残簡戸籍(ざんかんこせき)「豊前國上毛郡塔里(とうり)」は、後の「和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)」記載の「多布(とう)」とみられる上毛町唐原付近に、「加自久也里」は「炊江郷(かしきえのごう)」とみられる豊前市大村周辺に想定されますが、渡来系の姓が多いとされています。「和名類聚抄」には、「加牟豆美介(かむつみけ)」という記述があって、上身郷もみられます。この上(止もしくは土の誤字とする説がある)身は吉富周辺の可能性が高いといえます。また、藤原広嗣(ひろつぐ)の乱(740年)に関係する「登美鎮」は軍事施設らしく、海路と河川沿いの交通の要衝であった吉富町などを含む山国側下流域に登美鎮(とみちん)があったとする説もあります。

律令体制では、豊津町に国府、国分寺が設置され、上毛郡では上毛町大ノ瀬官衙(だいのせかんが)遺跡に郡衙(ぐんが)が設置されていたようです。郡衙設置にも当時の豪族が大きく関与していたであろうし、垂水廃寺を建立した豪族であった可能性は高いと考えられます。中津市長者屋敷遺跡に設置された下毛郡衙と中津市相原廃寺(あいはらはいじ)の関係も(しか)りです。

大宰府と国府を繋ぐ官道(駅路)のうち、豊前豊後ルートは豊津町の豊前国府から築上町越路(こいじ)、福間、豊前市松江(しょうえ)、荒堀、上毛郡衙、垂水廃寺、下毛郡衙、勅使道を経て、宇佐に向かうコースの幅6メートル規模の直線道路であったことが、各地での発掘調査で発見された路床面(ろしょうめん)や側溝を繋いで復元が可能になっています。現在の地割に名残をを残す条里区割りも、官道を基準にしていたようです。

宇佐八幡の隆盛でも、律令体制強化策で隼人の乱(719年)に関連して、豊前国から大隅へ大規模な移住をさせる策でも、豊前の帰化系氏族が関わっていると考えられます。律令体制の公地公民制は、やがて貧富の差や豪族層の中間搾取などによって変質して荘園化して行きましたが、この地域は宇佐宮領に組み込まれていたようです。

吉富町周辺の、特に山国川中下流域付近は、瀬戸内海からみたとき、九州島の玄関口のひとつで東日本から九州に流れた縄文後期の大きな文化の流れで、真っ先に影響を受けた地域です。また、弥生時代後期から古墳時代にかけての邪馬台国成立のなかでも、ルートの一つであったかも知れません。その後も、ヤマトから筑紫の国、肥の国へ向かう時に、豊の国を経由する際には、山国川は重要なルートとなるために真っ先に掌握(しょうあく)される地域であり、特にヤマト政権、律令国家の成立過程で重要な位置を占めていたと考えられます。一方、海に面した地理的条件をもとに、周防灘沿岸地域の人々は、新たな文化を能動的に摂取し、自らの生活に生かす工夫を繰り返しながら歴史を培ってきました。

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