近世吉富の歴史と文化財
天正15(1587)年
天正15(1587)年、秀吉の九州平定後の九州仕置き(国割)によって吉富地方は、黒田 孝高 が支配するようになりました。孝高は、はじめ 京都 郡馬ヶ岳城に入りましたが、翌16(1588)年、中津城を築いて入城しました。鎌倉時代に異国警固のため九州に下向し、 城井川 流域一帯を中心に、豊前国最大の勢力を誇っていた宇都宮 鎮房 は、孝高の豊前入国に強く抵抗しました。緒方・ 如法寺 氏らの国人も鎮房にくみして 姫隈山 に挙兵したため、孝高の子 長政 は広津城へ出馬、吉富地方は戦場となりました。しかるに、孝高・長政は、鎮房ら豊前国人衆の反乱を鎮圧し、検地を断行しました。吉富には、この反乱で黒田氏に謀殺された鎮房の娘千代姫や一族にまつわる「 醍醐経 一字一石塔」や「宇賀神社の 石祠 」が伝存しています。
慶長5(1600)年、関が原の戦い後、長政は、筑前国名島(のち福岡)52万3100石余に転封しました。同年12月、細川 忠興 が、丹後国宮津から中津30万石(実高39万9599石6斗)の大名として 入封 しました。同7(1602)年11月、忠興は、居城を小倉に移し、中津は 嫡子 忠利 の居城としました。忠興は、検地・ 知行割 ・刀狩りを実施し、 地方 支配に固有な 手永 制度を採用しました。
元和 7(1621)年、忠興は 致仕 して 三斎宗立 と号し、忠利が第二代藩主として小倉城に入り、三斎はふたたび中津城に戻りました。本藩は小倉領と認識され、三斎の 蔵入地 (隠居領3万7000石)ならびに三斎付き 給人 知行地(4万2093石)は中津領として、忠利の小倉領とは分離した存在でした。
寛永10(1633)年7月の「御代官御算用帳」( 喜多代 家文書)によると、 上毛 郡 大ノ瀬 手永19ヵ村のうち、中津領は吉岡・広津・鈴熊・ 仁料 ・中村・土屋垣・今吉の7ヵ村で、 幸子 ・ 別府 ・ 下多布原 ・ 八並 ・上多布原・ 垂水 ・ 直江 ・宇野の8ヵ村は小倉領との 相給 支配でした。豊前細川領では、寛永3(1626)年に一里塚が築かれています。そして、 下往還 が開設され、路傍には道祖神が祀られました。
寛永9(1632)年、細川氏が肥後へ移封後、小笠原長次が 播磨国龍野 から中津8万石の大名として入封しました。 長次 は、寛永15(1638)年、島原・天草の乱出陣中の 警固 のため、高浜の 京泊 港の先端に、遠見番所を設置しました。そして、寛文2(1662)年には、大ノ瀬池を完成させました。二代 長勝 は、延宝元(1673)年、幸子の河岸に三層の茶亭を建て、 奢侈 な生活を送りました。同6(1678)年、財政危機打開のため、 郡代岩波源三郎 を登用し、延宝改革を断行しましたが、その悪法が幕府の叱責をかい、岩波は追放されました。三代 長胤 は、元禄8(1695)年、弟 長宥 に 私墾田 5000万石を分与、 旗本時枝領 が成立しました。同11(1698)年7月28日、幕府は、長胤の 苛政 と乱行を理由に領地を没収、弟 長円 に上毛・下毛・宇佐、三郡のうち4万石を与え、あとの半知を幕府領に編入しました。
享保元(1716)年)、長円の長男
■古表崎行宮

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