メニューを閉じる

【7】美濃派の俳諧と地域文化

■美濃派俳人

日本俳諧史上で中興者の位相にあった俳聖松尾芭蕉は、蕉風(しょうふう)俳諧の創始者でもあります。「蕉風」とは、芭蕉の俳風のことで、広義には直門およびその末流の俳人を指します。

全国の俳壇は、都市系俳壇(京都・大坂・江戸の三都を舞台に活躍する貞門派・談林派)と地方系俳壇(美濃派・伊勢派)の2つに大別できます。都市系は、知巧(ちこう)的趣味的な句を、地方系は、平明な実景実情的な句を、それぞれ重視しました。杵築(きつき)俳壇は、元文~延亭期(1736~47年)に九州各地を巡遊した行脚俳人安楽坊春波の影響による伊勢派の俳諧です。吉富俳壇は、寛政~文政期(1789~1829年)に九州各地を巡遊した行脚俳人岡崎風盧坊(ふうろぼう)・山本友左坊の影響による美濃派の俳諧です。美濃派は、蕉門十哲の1人各務支考(かがみしこう)が開いた一派で、支考の出身と活動の舞台が美濃であったためにつけられた派名です。支考は、獅子庵とも号したので、獅子門とも言います。

支考の後は、仙台櫨元坊(ろげんぼう)-田中五竹坊-安田以哉(いさい)坊-大野是什(ぜじゅう)坊-野村白壽(はくじゅ)坊-岡崎風盧坊-山本友左坊と継承されました。天仲寺(てんちゅうじ)境内には、芭蕉以下美濃派7人の宗匠や吉富俳壇の文(じゅう)坊・遅日庵(ちにちあん)耘露(うんろ)坊などの句碑が建てられています。岡崎風盧坊や山本友左坊の影響を受けた吉富俳人としては、岸井の文什坊(岸井手永大庄屋中村忠左衛門、蘭推、文台立机(りつき)を許され、孤月庵(こげつあん)一世、文政2年1月20日歿)・中津の遅日庵(中津藩士山崎源九郎、卓朗仙(たくろうせん)還見(かんげん)坊、同二世、天保9年8月8日歿)・和井田の耘露坊(矢頭(やず)代八郎、澄明庵、同三世、弘化3年閨5月18日歿)・中津の花月坊(同四世)・東浜の沙浪庵(しゃろうあん)(井上氏、同五世)・広津の松月坊(野依銀兵衛、同六世)・今津の清香庵(せいこうあん)(今津小十郎、同七世)・長洲(ながす)孤月(こげつ)庵(広崎佐平、同八世、昭和4年正月4日歿)などがいます。

そして、美濃派俳人としては、岸井の二松庵・西友枝の汀高盧(ていこうろ)(吉村浅右衛門)・土佐井(つっさい)の医師笠原桃夭(とうよう)園素・竹葉舎(ちくようしゃ)杏花園(りかえん)などもいます。

近世中期以降の地方俳壇の隆盛は、美濃派や伊勢派の行脚俳人の諸国巡遊(じゅんゆう)に負う所が多いのですが、それを受容する地方の生産力の増大と地方町人の成長があったからです。地方の素封家(そほうか)が寛大に旅の文人を迎え入れる風習は、詩人や画家にも及び、遥か明治中期まで続きました。中央文化を受容する階層-上層武士・新興の上層町人・学者・医者-を母体として、文化サークル的な俳壇が存在していたのです。近世の吉富には、美濃派の句碑だけでなく、原田東岳(とうがく)根来東麟(ねごろとうりん)・竹本津太夫(つだゆう)など、中津藩の学者や文人・芸人の墓、そして剣豪島田虎之助の修練地がありました。

吉富は、地方文化の醸成地であり、集束地でもあったのです。

■根来東麟の墓

史跡 広津 天仲寺山東側
根来東麟は、享保6(1721)年に京都に生まれ、幼い頃より優秀で、医術を学び、多くの難病を治療しました。また、大変優れた人物として人望が高く、明和2(1765)年、45歳の時に中津藩主奥平公に招かれて侍医となりました。天明7(1787)年、67歳で亡くなるまで、東麟は医師として優れていただけでなく、多くの書も好み、医術と学徳は多くの人に慕われました。東麟の墓は、天仲寺山の東側にあり、位牌形の墓標の正面には「根来東麟墓」と隷書で刻し、その下には東麟の経歴と業績などの銘文が刻まれています。


■美濃派の句碑

町指定 史跡 昭和62年3月2日
広津 天仲寺境内

天仲寺境内に立ち並ぶ5基の碑は、俳聖松尾芭蕉や地元和井田の俳人澄月庵耘露坊、広津の俳人孤月庵松月坊など美濃派の俳人の功績を偲んで門人であった中津花中坊とその弟子の沙浪庵が建立したものです。美濃派というのは、蕉門十哲の1人で美濃国(岐阜県)の俳人各務支考が開いた俳諧の一派で、美濃・伊勢を拠点に活動していたため、そう呼ばれました。

■美濃派の句碑紹介

第一句碑 耘露坊 句碑

志ら志らと夜も明きって原の霜

第二句碑 芭蕉 句碑

ものいへば唇寒し秋の風

第三句碑

牛阿る声に鴨たつゆふべ哉  獅子庵人

住倦いた世とは嘘なり月よ花  黄鸝園

仰向いて分別はなしけふの月  帰童仙

つゝ立て杉こころなしけさの雪  雪炊庵

くもる程よい空奪ふ桜かな  朝暮園

ほろほろと雨の降り出す枯野哉  道元居

聞きまかふ物なし雲に郭公  以雪庵

第四句碑 孤月庵 句碑

飯煙の棚引くひまに梅白し

第五句碑 遅日庵 句碑

音ほどは松もこぼさずはつ時雨

■原田東岳の墓

史跡 広津 広運寺境内
原田東岳は、中津奥平藩政時代の儒学者でした。東岳は享保14(1729)年に大分県日出に生まれ幼い頃から優秀で、日出藩主の木下俊泰は東岳を京都に遊学させ、さらに江戸で古文辞を学ばせました。東岳の名声は高く、小倉の増井玄覧と並び称される程でした。東岳の墓は広運寺境内にあり、墓標は位牌形で上部に隷書で「東岳原田先生墓」と刻し、その下に東岳の経歴と業績を紹介した銘文が刻されています。


■竹本津太夫の墓

史跡 広津 天仲寺山東側
この竹本津太夫は、大阪文楽座の大立物で浄瑠璃の重鎮人間国宝の竹本津太夫の五代前にあたる人です。津太夫は、中津藩主奥平公に仕える客員(芸人)として招かれました。当時の中津城下町周辺では、浄瑠璃が盛んで、津太夫には多くの門人がおり、町内でも広津や小犬丸の商家を中心に広く普及したそうです。津太夫の墓は、自然石を使った墓標で「竹本津太夫」と刻まれています。


■島田虎之助修練の地

史跡 広津 天仲寺公園
幕末の剣豪「島田虎之助」は、少年時代から剣の道に生きる決心は固く、昼は中津の剣術指南役堀一刀斎の道場、夜は天仲寺山に毎晩登り、一人剣法の修練に精進し、18歳のとき、九州各地を武者修行しました。修行中には、各地を巡りその名を轟かせていましたが、鍋島藩や柳川の大石道場での勝負で、自分の未熟さを悟り、筑前の仙崖和尚のもとで参禅し、心の修養と剣の修行に励み、中津に帰った後も天仲寺山で修練を積んだといわれています。天保18(1837)年に、江戸浅草の新堀に直新影流の道場を開きました。このときの門下生が、幕末から明治の政治家、勝海舟で、虎之助は海舟に大きな感化を及ぼしたと伝えられています。虎之助は、漢学の知識に加えて蘭学や西洋式軍事教訓にも造詣が深く、門下生にも学問の大切さを説きました。また、剣術の目標を「剣心一致」とし、精神の統一を強調しており、剣の才能は素晴らしく、「幕末の剣聖」と呼ばれました。

お問い合わせは教育委員会
 教務課

電話0979-22-1944

窓口:フォーユー会館内  
〒871-0811 福岡県築上郡吉富町大字広津413番地1
上へ戻る 上へ戻る 上へ戻る