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■慶応3(1867)年

慶応3(1867)年の秋、「大政奉還」、慶応4年(1868)年7月14日の「廃藩置県」の断行、同年9月8日、「明治」と改元され、264年間続いた江戸時代も終わり、政治や経済など社会全体が大きく変動していきました。中津藩は、廃城の届出を諸藩に先駆け、明治新政府に提出、最後の中津藩主となる奥平昌邁(おくだいらまさゆき)も廃藩後、「中津藩知事」として中津に在住していましたが、その後、中津藩領域も「中津県」となり、奥平一族は東京へ引き揚げました。それから、豊前国(ぶぜんのくに)一帯は「小倉県」となり、明治9(1876)年8月に福岡県が誕生しました。

明治新政府は、人口調査、徴兵令、神仏分離令や廃仏毀釈、学制など、さまざまな政策に取り組みました。明治24(1891)年に東吉富村が誕生し、村況は現在の自治会とほぼ同じでしたが、高浜村(現高浜)は、小犬丸の一部(現・喜連島(きつれしま))と小祝、それと中津町があり、大分県と福岡県に分割されていました。この高浜村では、藩制時代からさまざまな問題や衝突が漁民の間で起こっていました。ところが、明治22(1889)年の夏、2ヶ月におよぶ長雨が続き大洪水となり、小祝島が分離しました。明治29(1896)年4月1日、築城(ついき)上毛(こうげ)両郡合併による築上(ちくじょう)郡の誕生とともに、現在の福岡、大分の県境が決定されました。

明治政府は学制の制定、徴兵令、地租改正を「三大政策」とし、特に教育の普及に熱意を注ぎました。吉富地方では小犬丸、広津、直江などに、武士や僧侶、神官、医師などが寺子屋を開き、広津の三木与右衛門(みきよえもん)塾は、若者に数学を教える特異な塾でした。明治5(1872)年8月の「学制」公布まで、こうした寺子屋式教育が続きますが、翌年5月に天仲寺を使った「金山(きんざん)小学校」が開校しました。明治12(1879)年9月、「学制」が廃止され、「教育令」が定められました。明治19(1886)年4月、小学校が尋常、高等の2科に分けられ、広津尋常小学校と改称され、その後、東吉富村の誕生により東吉富尋常小学校となり、現在の場所に校舎が新築されました。

■吉富小学校運動場での軍事教練風景

(写真提供:柳原勢津子氏)

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