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【2】新たな交通時代と生活様式

■藩制時代

藩制時代、中津に出かけるには、広津渡しと小犬丸渡しの渡し舟が使われていましたが、明治2(1869)年1月、広津~中津間に船を横に並べ、その上に板を敷いた「船橋」が架かりました。

明治36(1903)年には、福岡・大分両県が架橋工事費8万円を投じて、幅4.5メートルの木造の山国橋が完成しました。木造橋の完成で交通も大きく変化しましたが、木製であるため路面に穴があくなど老朽化が進み、事故も起こるようになりました。昭和9年(1934)年2月に、福岡・大分両県が総工費117,125円をかけ、長さ215メートル、幅8メートルの鉄筋コンクリート製の山国橋が完成し、橋脚12基の中央を境に大分県と福岡県(橋脚に2穴のデザイン)の県境としました。

新たな交通形態として、日清戦争後の好景気に「豊州鉄道株式会社」が発足し、明治28(1895)年、小倉~行橋間に豊州線が開通し、その後、明治39年(1906)年9月25日には、行橋(ゆくはし)~柳ヶ浦間も鉄道が開通し、築上郡内に椎田(しいだ)松江(しょうえ)宇島(うのしま)に駅が設けられるなど、新たな交通時代が幕を開けました。それから、日露戦争後の明治40(1908)年7月、鉄道が国有化され、昭和12(1937)年に、現在の日豊(にっぽう)本線と改称されました。また、生活様式も大きく変貌し、明治15(1882)年以前まで各家庭では、魚油(ぎょゆ)(鯨油(げいゆ))を使って行灯(あんどん)に明かりを付けていましたが、石油の輸入によりランプが発達しました。

明治36(1903)年10月に初めて中津に電灯が灯りました。その後、大正10(1922)年10月に東吉富村役場に電話が開通するなど、生活様式は大きく変わってきました。

■山国橋架橋工事風景

1933(昭和8)年
(写真提供:柳原勢津子氏)

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