歴史散策マップ
多くの歴史好きが訪れる吉富の史跡
見て、知って、歴史に思いを馳せる
散策リスト
遠見番所跡
寛永15(1638)年に起きた日本の歴史上最大規模の一揆である「島原・天草の乱」に中津藩主小笠原長次公が出陣した際、その留守中の番をするために、高浜の京泊港(現、埋立地)の先端に遠見番所を造ったと言われています。 番役人を置いたその番小屋は番所と呼ばれました。
番所内側の京泊港は、江戸時代には京坂商船の停泊所として使われていましたが、寛文9(1669)年の大洪水により無くなってしまいました。
大洪水が起きるまでは、高浜と中津市小祝島は陸続きで、白砂青松の美しい海岸は和歌にも詠まれるほどの名所でした。
法華経一石一字二部塔
島原・天草の乱に中津・小倉両藩も出陣し、多くの死傷者を出しました。
その供養のために、文化元(1804)年8月、「法華経一石一字二部塔」が遠見番所の前の広場に建てられました。
正面には「法華経一石一字二部塔 文化申子年八月」と刻まれており、塔の周りで、供養踊りとして「番所踊り」が踊られていたそうです。
島原・天草の乱に中津・小倉両藩も出陣し、多くの死傷者を出しました。 その供養のために、文化元(1804)年8月、「法華経一石一字二部塔」が遠見番所の前の広場に建てられました。
八幡古表神社(はちまんこひょうじんじゃ)
「神様が相撲をとる町」として有名な吉富町で、その舞台となるのがこちら、1400年もの歴史を誇る古社。
「神様が相撲をとる」とは、4年に1度の8月、放生会(ほうじょうえ)で奉納される「細男舞(くわしおのまい)・神相撲」のことで、こちらは国指定重要有形民俗文化財にも指定される神聖な儀式。
ほか、毎年8月には細男舞の御神像に着せる着物を土用干しする「乾衣祭(おいろかし)」も行われ、境内全体が最も賑わいを見せます。
境内には、入母屋造りで千鳥破風をあしらった拝殿、三間社流造りの本殿、神舞殿が鎮座。
広い神苑に囲まれた堂々たる容姿を醸し出しています。
八幡古表神社に伝わっている傀儡子とそれを操っての傀儡子の舞(細男舞)と神相撲は、4年に一度行われています。 傀儡子と細男舞・神相撲は国の重要有形民俗文化財の指定を受けています。
皇后石
皇后石と呼ばれるこの石は、八幡古表神社にある江戸時代の古地図に、海岸の小高い丘の上の巨石として描かれ、周辺からも弥生式土器など多数の遺物が発見されています。
遺物の中には神をまつるための 祭祀( さいし) 土器も含まれており、 巨石信仰 (きょせきしんこう) の一つであり、海の神を祀る祭祀跡であったと思われます。
また、巨石はかつて周辺の人々から「鬼の臼」とも呼ばれ、上部にある穴に溜まった水を付けるとイボが落ちるという信仰もあり、「イボ神様」とも呼ばれています。
藩界石(従是西小倉領)
小倉領を示す石標は、現在は界木の福田家の庭に残っており、「従是西小倉領」と刻まれています。
藩政時代の境界であった御界川は、現在でも吉富町と豊前市の境界となっており、当時の名残が今も残っています。
一里塚
四郎丸から中津を結ぶ下往還の直江の所に一里塚」があり、四郎丸から高瀬を結ぶ上往還の大ノ瀬の所に、それぞれ一里塚を示す墨星が残っています。
細川期に「一里塚」と呼ばれていた一里塚は、小笠原期の正保国絵図では「一里山」と呼ばれており、一里塚は領域や時代によって、「一里山」・「一里木」・「一里石」・「一里塚」など様々な名称で呼ばれていました。
醍醐経一字一石塔
しかし、黒田孝高の裏切りにより宇都宮鎮房は謀殺され、千代姫をはじめとする宇都宮一族13人も処刑されました。
その宇都宮一族の悲しさを忍び、追善供養のため、この「醍醐経一字一石塔」が建てられました。
黒田孝高の裏切りにより謀殺された宇都宮鎮房や千代姫をはじめとする宇都宮一族13人が処刑された際に、宇都宮一族の悲しさを忍んで追善供養のため、この「醍醐経一字一石塔」が建てられました。
小犬丸渡し
渡し代金として三文を取っていたことから、「小犬丸の三文渡し」とも呼ばれたそうです。
当時の山国川には橋が架かっておらず、小犬丸渡しができる前までは、「広津渡し」という、両岸を繋いだ大綱をつたって小舟で往復していました。
明治になると小舟の上に板を張り、それをいくつも繋いだ「舟橋(ふなばし)」と呼ばれる簡単な橋ができるまで、中津への交通手段として幅広く使われていました。
広津渡し跡
当時、舟渡しは「広津渡し」しかなく、広津では橋が架かっていませんでした。
上級藩士や通行手形のある人だけが利用できる小犬丸渡しと違い、下級藩士や旅人は、広津渡しを利用して、城下の外堀を遠回りするように城下町へ入っていました。
美濃派の句碑・天仲寺跡
天仲寺境内に立ち並ぶ5基の碑。
この句碑は、俳聖松尾芭蕉や地元和井田の俳人である澄月庵耘露坊、広津の俳人孤月庵松月坊など美濃派の俳人の功績を偲んで門人であった中津花中坊とその弟子の沙浪庵が建立したものです。
美濃派というのは、蕉門十哲の1人で美濃国(岐阜県)の俳人・各務支考が開いた俳諧の一派で、美濃・伊勢を拠点に活動していたため、そう呼ばれました。
5基の碑は、俳聖松尾芭蕉や地元和井田の俳人である澄月庵耘露坊、広津の俳人孤月庵松月坊など美濃派の俳人の功績を偲んで門人であった中津花中坊とその弟子の沙浪庵が建立したものです。
天仲寺古墳
吉富には古墳がいくつか存在しており、そのひとつが天仲寺公園にあります。
天仲寺古墳は、複式構造の巨石を使用した横穴式石室を主体部にしており、全長9.7メートル、玄室幅3.2メートル、前室幅2.7メートルの規模となっています。
既に石室内は盗掘されていたものの、前庭部から銅鈴3、留金具3点、須恵器片などが出土して7世紀初頭頃まで追葬していたものとみられます。
調査区域からは土器や埴輪が出土しており、天仲寺古墳以前の墳墓が現在の上水道施設や、小笠原長次公墓付近に存在していた可能性も残されています。
小笠原長次・長円・長美公の墓
三者の墓はそれぞれ近い場所にあり、長次公は遺言で「自分を葬るときは、鎧・甲を身につけ、腰には太刀、手にほっすを持たせ、広津山に埋めよ」と言って絶命したと伝えられています。
昭和48(1973)年に天仲寺の公園整備事業が行なわれ、地下2メートルほど掘り下げたところに石棺があり、遺言どおりの姿をした長次公が、中津城の方向を向いたように葬られているのが確認されています。
広津城跡
天正 15 ( 1587 )年、黒田長政は、豊前入国に強く反抗していた宇都宮氏をはじめとした豪族を討つため、広津城を出し本陣としました。
その後、黒田孝高が中津に築城する際に広津城は破却されました。
島田虎之助の修練の地(天仲寺公園)
この天仲寺山には天仲寺公園があり、パワースポットが集まっている場所です。
また、この地は「幕末の剣聖」とうたわれ、勝海舟の剣術の師として有名な島田虎之助が、青年時代に心身ともに修行し、鍛え上げた場所としても知られています。
さらに、中津藩主小笠原公三代の墓や豊前・築上地域最大規模の天仲寺古墳など見所がたくさんあります。
幕末の剣聖・島田虎之助が、青年時代に心身ともに修行し、鍛え上げた場所のひとつ天仲寺公園。 ここには中津藩主小笠原公三代の墓や豊前・築上地域最大規模の天仲寺古墳など見所がたくさんあります。
広運寺(野田新助・吉岡八太夫の墓)
広津氏の菩提寺と孝えられる広運寺は、天文6年、大寧寺の助翁永扶(じょおうえいふ)によって曹洞宗の寺院として開かれました。
宇都宮鎮房(しげふさが)、天正16年に豊臣秀吉の命令をうけた黒田長政によって中津城で謀殺されたとき、広運寺で待っていた家臣16人は、これを知って、この寺で切腹したと伝えられています。
また、『城井谷きいだに物語』という本によると、鎮房の家臣の吉岡八太夫(はちだゆう)と野田新助は奮戦し深手を負いながらも、山国川を渡り広運寺まで逃げ延びましたが、この地で自害となりました。
その2人の墓が今もあると「築上郡史」に記されています。
ここは宇都宮鎮房(しげふさが)の家臣16人が切腹した場所と伝えられています。また、鎮房の家臣の吉岡八太夫(はちだゆう)と野田新助もここ自害し、その2人の墓が今も残っています。
八坂神社・藩界石(従是東中津領)
現在、中津領を示す石標は八坂神社にあり、町指定建造物となっています。
藩政時代の境界であった御界川は、現在でも吉富町と豊前市の境界となっています。
土屋 壷神社
毎年10月14日に行われる壷神社の秋祭り神事となる「水占い」。
地元土屋区の氏子の中から選ばれた若者が褌(ふんどし)一つで佐井川から手桶に水を汲んで持ち帰り、その浄水を神主が神霊の宿る壷に献水し、神壷に納まった水の量によって翌年の五穀成就・作物の育成に必要な降水の過不足を占う神事です。
この神事は、弘安4(1281)年に空から天降った明星の神を土屋三郎右衛門という人が発見。
直ぐさま川の中に飛び込み、壷にすくい上げて、壷大明神としてた讃えたことから始まった神事です。
吉富の人々の五穀豊穣を願う強い気持ちが、この神事に表れているようです。
鈴熊寺
鈴熊山公園にある「鈴熊寺」は、聖武天皇の命を受けた僧・行基により疫病平癒の願いをこめて開山されたと伝えられています。
その後、疫病を退散させ、聖武天皇の命によりこの堂を建立しました。
この堂の中には本尊の薬師瑠璃光如来像があり、国指定重要有形文化財に指定されています。
また、十一面観音菩薩座像など多くの仏像や、涅槃絵図なども所蔵しています。
このように貴重な品々が奉納されており、地元民だけでなく、歴史を愛する多くの愛好家の方が遠方からわざわざこの場所に足を運んでいます。
鈴熊山公園には、竹林・雑木林など多くの自然が残されており、癒やしの場所となっています。また、鈴熊山には多くの文化財を有する鈴熊寺もあります。
楡生山古墳
かつて、5世紀中頃の山国川・佐井川流域において、首長かそれに次ぐほどの地位にあった人の古墳であると言われており、大正4(1915)年に経塚が発掘されました。
経塚とは、紙に経文(法華経)を書いて、経筒に入れて地中に埋めたもので、先に造られていた古墳を利用して、平安時代頃に埋められたものと言われています。