法華経一石一字二部塔
江戸時代初期、多くの犠牲を出した島原の乱
慰霊の塔が今もたたずみ、番所踊りと共に当時を物語る
法華経一石一字二部塔と番所踊り
法華経一石一字二部塔
町指定 有形文化財 建造物 平成4年11月16日 高浜 吉富漁港入口前
その供養のため、文化元(1804)年8月、遠見番所の前の広場に建てられたものが「法華経一石一字二部塔」です。
正面に「法華経一石一字二部塔 文化申子年八月」と刻まれています。
また、法華経一石一字二部塔の周りで、番所踊りが踊られていたそうです。
番所踊り
町指定 民俗文化財 無形
平成4年11月16日 小犬丸 八幡古表神社
「番所踊り」の由来は、寛永年間(1637年頃)島原・天草の乱に中津藩が出陣し、多数の死傷者を出したため、その供養踊りとして始まったとされています。
寛永15(1638)年、高浜海岸に遠見番所が造られ、番所の広場の供養碑の周りで、小祝の人たちが参加して踊っていたそうです。
また、一説には番所にあまり人が寄りつかないため、番所役人が女性や子どもを集め、菓子などを与えて踊らせていたとも伝えられています。
現在では、喜連島や高浜の婦人たちにより「番所踊り保存会」が組織され、普及・伝承活動を行っています。
いまも伝えられる「番所踊り」の歌
番所オオホエ 御場がアー広い
ヤッコラセ 広い番所に来て踊れ
番所役人ソレヤ ホンホーエ 親切者よ
ヤッコラセ 腹の痛い時や 万金丹
盆の一六日ソレヤ ホンホーエ 踊らぬ者は
ヤッコラセ 猫か鼠か古狸