美濃派の句碑
江戸時代 全国的に起こった俳句ブーム
ここ吉富にもその影響を物語る句碑
美濃派の句碑・天仲寺跡
町指定 史跡 昭和62年3月2日
広津 天仲寺境内
天仲寺境内に静かに立ち並ぶ5基の碑。
この句碑は、俳聖松尾芭蕉や地元和井田の俳人である澄月庵耘露坊、広津の俳人孤月庵松月坊など美濃派の俳人の功績を偲んで門人であった中津花中坊とその弟子の沙浪庵が建立したものです。
美濃派というのは、蕉門十哲の1人で美濃国(岐阜県)の俳人・各務支考が開いた俳諧の一派で、美濃・伊勢を拠点に活動していたため、そう呼ばれました。
諸国を巡る俳人たち、受け入れた吉富の人々
近世中期以降の地方俳壇の大ブームは、美濃派や伊勢派の諸国を旅し、巡り歩く俳人たちがいたためでした。
しかし、俳人たちが地方を巡り歩き、彼らを受け入れる事が出来たのは、ひとえに地方の生産力の増大と地方町人の成長があったからこそです。
地方の庄屋などの財産を持つ人々が寛大に旅の文人を迎え入れる風習は、詩人や画家にも及び、この先の明治中期まで続きました。
中央の文化を受け入れ取り込んだ階層(上層武士・新興の上層町人・学者・医者)を母体として、ここ吉富にも文化サークル的な俳壇が存在していたのです。
近世の吉富には、美濃派の句碑だけでなく、原田東岳(とうがく)や根来東麟(ねごろとうりん)・竹本津太夫(つだゆう)など、中津藩の学者や文人・芸人の墓、そして剣豪・島田虎之助の修練地がありました。
吉富は、俳壇をはじめ中央の文化を受け入れ熟成させた地であり、様々な優れた文化の集まる地でもあったのです。
美濃派の句碑紹介
第一句碑 耘露坊 句碑
志ら志らと夜も明きって原の霜
第二句碑 芭蕉 句碑
ものいへば唇寒し秋の風
第三句碑
牛阿る声に鴨たつゆふべ哉 獅子庵人
住倦いた世とは嘘なり月よ花 黄鸝園
仰向いて分別はなしけふの月 帰童仙
つゝ立て杉こころなしけさの雪 雪炊庵
くもる程よい空奪ふ桜かな 朝暮園
ほろほろと雨の降り出す枯野哉 道元居
聞きまかふ物なし雲に郭公 以雪庵
第四句碑 孤月庵 句碑
飯煙の棚引くひまに梅白し
第五句碑 遅日庵 句碑
音ほどは松もこぼさずはつ時雨